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九十一歳初観戦
2016.06.24 Friday - comments(1)

この家ができたら仮設住宅で暮らすばあちゃんを呼びたいと思っていた。そして、一緒にカシマスタジアムでサッカーを見たいというのが、今年の大きな目標だった。それが4月に叶ったときの話。

 

九十一歳初観戦

 

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小さな映画館
2016.01.19 Tuesday - comments(0)
2015/10/25
一人暮らしで寝込むと、ああもうこのまま死んでしまうんだ、誰にも発見されずに、白骨化して静かにこの世から消えていくんだ、とひどく弱気になる。家族がいる人はいいなとずっと思っていた。特に3年前のあの日はきつかった。一人で入院支度をして病院に赴き、手術を受け、意識が戻ってすぐ車椅子を押されてお会計を済ませ、一人で退院手続きをしてヨロヨロと帰宅するというあの経験は、心も体もついていかなかった。誰かに助けて欲しいと思うことは多々あるけれど、あの日は心の底から誰かを必要としていた。でも、今までも何だって一人で乗り越えてきたし、これからも乗り越えていくしかない。結婚しないということは、そういうことなのだ。

私の人生には「家族のあたたかさ」というものが完全に欠如していたから、正直憧れもあった。とはいえ、私はこれからもたぶん一人で生きていくと悟る年齢になったので、鹿嶋の家はインフルエンザで寝込んでも快適に療養できる仕組みをつくる。プロジェクターでサッカーや映画を見るためのミニシアター計画だ。

当初は、玄関横の下駄箱上部にプロジェクターを仕込む予定だった。ところが、空間ができてくると、プロジェクターの映写距離が1.7mと近すぎて、57インチ程度の大きさにしか映せないことがわかった。プロジェクターは映写距離に応じて、スクリーンサイズが決まってくるので、もう少し距離を取らないと画面が小さい。これじゃあテレビとあまり変わらないじゃないか。しかも、映写角度に無理があった。私のインフルエンザ生活は、絶望的だ。短焦点のプロジェクターであれば、2m程度の距離でも大画面で映写できるようだったけど、デザインや機能に納得がいかなかったし、何よりも予算オーバーだった。

この計画のために、吹き抜けの南側はほとんど窓を付けなかった。そのせいで、この家はちょっと暗すぎるのでは?と心配になるほどだったが、そこは建築家がちゃんと考えてくれて設計してくれている。とはいえ、プロジェクターが映せないのなら、南側に大きな窓を付けたかった...。

現場で「この計画は失敗だ」「私は一人静かに死んでいくんだ」と投げやりになっていると、現場監督の北澤さん(レイザーラモンRGに激似)が、「プロジェクターを下駄箱に仕込むんじゃなくて、上から映せばいいじゃないですか。ちょうど寝室にPC机があるんだし、その一番上の棚にプロジェクター置いたらどうです?」と天才的提案をしてくれた。

映写距離は4m前後。この距離だと120インチで映写できる。でかすぎる。しかし、スクリーンにする壁の大きさは、ちょうど120インチだった。完璧じゃないか。建築家の宇野さんが、プロジェクター設置の棚板を引き出し式にして、100インチくらいに映すようにしようかと、また天才的提案をしてくれた。私はいつ寝込んでも快適にサッカーが見れる。老後も安心。スピーカー付属のウーハーを置く棚板は、重低音の振動に耐えられるようにしておかないとね、とあれこれ図面にメモしてくれている。ありがたい。

スクリーン代わりの壁には、YAMAHAの壁付けスピーカーを設置する。ここに至るまでは、ビックカメラやヨドバシカメラに何度となく足を運んだ。白い壁に黒いスピーカーは嫌だった。白壁に白スピーカー、壁埋め込み型ではなく、壁取り付け可能なもの、それなりの音質は必要だけど価格は抑えたいという面倒な条件を次々言う私に、ヨドバシの音響担当の方が「ひとつだけあります。こちらです。」とベストな商品を案内してくれた。アンプ内蔵だから、別にアンプを買う必要もない。その代わり、マトリックスセレクターという機材につなぐことで、AV機器を4台まで接続可能にする。スピーカーからの天井裏を伝う配線は、ちょうど10mの光ケーブルでうまくいきそうだ。調査に調査を重ねて、ようやく結論が見えてきた。

そういえば、プロジェクターでテレビを映すにはどうしたらいいんだろう。深夜に調べていくと、壁にテレビ配線があれば、HDD/DVDレコーダーからプロジェクターへと接続することでうまく映写できるようだ。壁を塞いでしまう寸前で「寝室のPC棚にTV配線を一つ追加してください」とメールをした。



プロジェクター、スピーカー、ウーファーがうまく収まるサイズに作ってもらった。
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ハイテク物件
2016.01.19 Tuesday - comments(0)
2015/10/23

先週、配線打ち合わせをしたものの、時間が足りなくて納得できないまま帰ってきてしまった。このまま家づくりが進んでしまうと後々後悔しそうだったので、再度鹿嶋へ行き、配線の最終確認をしてきた。

建築家の宇野さんとすべての部屋を細かくチェックする。スイッチの位置、コンセント、照明の位置とおおよその形など。まだよくイメージできていないこともあったけど、もう決めないと先に進まない。生活動線を歩いてみると、「なぜここにスイッチがないの!」とか「照明位置が高すぎる、変更したい」という細かな修正がいくつもあった。

一通りチェックしたところで、今度は電気屋さんと一緒に全箇所をまわる。日本の照明はとにかく明るすぎる。とはいえ、オランダの照明は暗すぎたなと過去を思う。ダウンライトを7個から4個に減らしたいと言うと、みんなが口を揃えて「年を取ったら見えなくなる!悪いことは言わねえ。電気はいっぱい付けておけ!」と説得された。それでもやはり一部分は減らして、あとは数は減らさずに100Wを60Wにしてもらったり、細かく見直しをした。例えば、寝室のダウンライト4つを2つに減らし、枕元にブラケット照明を設置するなど、その空間をイメージしながら丁寧に決定していった。

宇野さんが「一般住宅でここまで配線が複雑な家は見たことがない。クリニック並みだ」と言う。職業上仕方がない。ワークスペースの配線は一番複雑で、これが週明けにはすべて壁の中に収まる。
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全部リクシル!
2016.01.18 Monday - comments(0)
2015/10/16

住所は潮来でもなく、神栖でもなく、鹿嶋にこだわりたかった。そして窓や住設機器に関しても、いくつかの選択肢があるのなら、LIXILを選びたかった。鹿島アントラーズの胸スポンサーはLIXILなのだ。たとえば、鹿嶋にポラス(浦和レッズの胸スポンサー企業)で家を建てる人はまあ少ないだろう。そういう理由だ。ただ、去年設計契約を破棄した女性建築家のAさんは、私のこの意見を全然受け入れてくれなかった。いくら「LIXILさんでお願いします!胸スポンサーさんなんです!」と言っても、「いいえ、この窓はYKKにします」といって譲らなかった。いくらサッカーに興味がないとはいえ、施主の意見より自分のデザイン優先で、まったく話にならなかった。

Aさんとしては、YKKじゃないと実現できない美しいデザインに設計したのだから、施主といえども素人が私の設計を却下するのは許さないという強気な態度だった。「ガラスとガラスが直角に繋がる部分にどうしても柱を入れなくないから、ここはYKKじゃないとダメなの」という主張は、私にとっては正直どうでもよかった。むしろ、そんなデザインは却下してでもLIXILにしたかった。だってそうでしょう、鹿嶋でYKKはないでしょう!

こういう事案が300はあったと思う。設計は私の思うようには進まず、Aさんの好みで進行していった。どうしたら私の意見を聞き入れてくれるのかと随分とくだらないことで悩んで、悩んで、悩んで、打ち合わせを重ねるごとに自分が住みたい家じゃなくなっていった。そんな時期に、現場のご近所にあるビストロノリーナさん(おいしい洋食屋さん)でオーナーさんと話をする機会があった。「ノリーナさんの窓ってYKKですか?」と聞くと「うちは全部LIXIL!」と即答だった。

「うちは全部リクシル!

私もそう言いたい。
せっかく鹿嶋に家を建てるのだから、うちも全部LIXILと言いたい!

契約破棄した後、今建築中の家の窓は、私の願いが叶って全部LIXILになった。建築家の宇野さんが「ていうか、LIXIL以外に選択肢あるの?一般住宅 の窓って言ったらシェアの5割以上はLIXILで、わざわざLIXIL以外選ぶ理由はどこにもない。安いし。」と言って、私が大いに悩んでいたあの頃は一体なんだったのだと思うほど、あっさりと私の望みを叶えてくれた。


うちはトイレもキッチンもLIXIL様。当然です。
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らせん階段
2016.01.18 Monday - comments(0)
2015/10/25
疲れが取れないなと思ったら、今月もう鹿嶋を5往復していた。なるべく現場立会は、鹿島アントラーズの試合日に合わせてもらいたいと希望を出していたが、そううまくはいかない。

最初に一人暮らしを始めたアパートは、洗濯機が外にあった。しかも二層式。次の百合ヶ丘の家は洗濯機が室内にあってうれしかった。国分寺のアパートは、憧れのロフトがあったけど、熱気が籠もって何度も脱水症状になりかけた。久我山のアパートに引っ越して、初めてトイレとお風呂が別々になった。西荻のテラスハウスには駐車場が付いて、高校生のちびと二人暮らしをした。オランダ移住に失敗したあと、西荻駅前の小さなアパートで1年間借り暮らしをした。今の阿佐ヶ谷にきて初めてソファと洗面台のある暮らしを始めた。もう小さなキッチンで歯みがきをしなくてもいいと思うと、うれしかった。

将来、らせん階段のある家に住みたいとずっと思っていた。たぶん二十歳頃からそんな妄想を言い続けてきたので、鹿嶋の家の話を聞いた友人たちは「で、らせん階段はあるの?」と聞いてくる。もちろん、玄関ドアを開けたら念願のらせん階段だ。

契約した工務店が、ちょうど我孫子で施工中の家にらせん階段が付いているというので、現場まで車を走らせた。その家には確かにらせん階段はあったけど、好みではなかった。同じ鉄骨屋さんに製作依頼するというので、その仕上がりや雰囲気だけをその日は確認した。

私が好きならせん階段は、もっと支柱が太い。でも太すぎてはいけない。手すりを支える鉄骨の数や太さも細かく書き込んだプレゼン資料並みの提案書を作って建築家に送ると、らせん階段の図面ができあがってきた。それを今度は鉄骨屋さんが詳細図面に作り直している。床との接地面や強度についても、細かく指示をする。

こんなふうにして、らせん階段の製作がいよいよ始まるのだが、既に壁も屋根もできあがっている。じゃあどうやって家の中にらせん階段を入れるのかというと、一部の屋根をパカッと外して、クレーンで上空から吊り入れるのだそう。たぶん、らせん階段の製作はもっと早く進めるべきだったんじゃないかと思う。

これからもっと年を取ったら、らせん階段を上り下りするのも億劫になるかもしれない。でも、これだけは叶えたかった。イメージ通りにできあがるかは、設置されるまでわからない。心配は尽きない。



追伸:
後日、母親にらせん階段の話をしたら、「おめえは昔っかららせん階段!らせん階段!って言ってたからなあ!」と言われた。あの人にらせん階段の話をしたのは初めてだと思ってたのに。
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ヘリンボーンとサイディング
2016.01.18 Monday - comments(0)
2015/10/23

何が何でも無垢のフローリング、しかもヘリンボーンがいい!と言い張っていた。ただ、予算がかなりオーバーしていたので、ヘリンボーンにするのも危ういところだった。

最初に諦めたのは、外壁の白い壁だ。職人さんに吹き付けてもらうのをやめて、パネルを貼り合わせることでかなり減額できた。パネルは最後まで納得いくものがなくて、「遠目には白壁に見える」というサンプルをいくつか見せてもらって、最終的にはトステムだからと妥協した。(トステムはLIXILのブランド)

パネルのサンプルはずっしりと重かった。かなりしっかりしているが「これボールを蹴ってぶつけたら割れますかね」と聞いたら、「誰が蹴るかによります。鈴木さんが蹴ったくらいのボールでは割れません。鈴木さんの好きなアントラーズの柴崎くんが本気で蹴ったら、まあ割れるでしょう」と笑った。割ってほしい!ぜひ柴崎くんにヒビを入れて欲しい!と妄想に走る私を見て、建築家の宇野さんが「割ってもらえ!」と投げやりに言う。

そんなこんなで、いろんなことを諦めてヘリンボーンは死守した。青森出身の大工さんが取扱説明書を見て途方に暮れていた。「おれ、こんなのやったことねえど。たぶん一生のうちこれ一回だげだな」と心配そうだった。「おれやったことねえ、こんなの見たこともねえ」と聞いて心配になったのは私の方だ。板を1枚ずつ貼り合わせていく大工さんを思って「本当にすみません、腰痛めないでくださいね」と言うと「もう今腰痛え」と。

板の微妙な色の違いもうまく見分けて、かわいく仕上げて欲しいと、欲を言えばきりがなかったが、大工さんにはその「かわいい感じ」がわからない。できてからのお楽しみということで、お任せしてきた。

今日の現場立ち会いは約9時間。まだ階段がないので、ハシゴを上ったり降りたり。
移籍(という名の引っ越し)まであと3ヶ月。
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Kashima
2016.01.18 Monday - comments(0)
住み慣れた東京を離れて、茨城県鹿嶋市に引っ越すことにした。しばらくの間、facebookに書いていた進捗を、そろそろ公開しようと思う。

2015/10/8

昨日、鹿嶋の家が上棟を迎えて、ようやく平面から立体になって思うことがたくさんあった。ここまでの家づくりは、身近な人にはちょっと話していたけど、建築家との契約を白紙にする出来事もあったりで、なかなか思うようにはいかなかった。オリンピックのエンブレム問題や、国立競技場の設計白紙撤回、サッカー日本代表アギーレ監督解任など、「白紙」のニュースが多かったから、そういう流れにあったのかもしれないけれど、もう家づくりは辞めようと思うほどに消耗して、心身共にバランスが崩れてしまった。

最初に設計契約した女性建築家は、打ち合わせを重ねるごとに態度が横柄になっていき、最後は打ち合わせの席で意見すると「施主がつべこべ言うもんじゃない!」と吐き捨てるようになっていた。スケジュールの遅れを指摘すると「私をやる気にさせてくださいよ」とお客の私に対して言う始末だった。この建築家は、施主のお金を使って自分好みの家を設計するという最悪の人だった。だから、私が希望と言うと、あからさまにため息をつく。私が女一人で家を建てること、建築家自身より若いこともあって、完全にナメていたし、真逆の上下関係が出来上がっていた。払ったお金は戻ってこなかったけど、あのとき契約破棄してよかったと、上棟した家を見てようやく思えた。

そもそも家を建てようと思ったのは、震災が大きく影響している。実家はもう完全に放射能に汚染されたし、親戚一同、土地も家もほぼ全滅してしまった。そのこともあって、都内に手頃な中古マンションを買うよりも、土地を買うところから始めようと思った。鈴木家の歴史を、更地から始めようかと。

便利で住み慣れた東京を離れるのは、だいぶ勇気が必要だった。同時に、上京してからずっと東京に居続けることに疑問も持っていた。これから先も東京で高い家賃を払って、今の生活を維持していく自信はまるでなかった。老後も収入を得ながら、女一人でも生きていくための方法を考えた結果が、鹿嶋の家だった。結局、6LLDDKKという一人暮らしの家にはあり得ない間取りになってしまったが、将来について考え尽くした結果がこの形だった。

家づくりを経験した人によると、眠れない日々が続くとか、気が狂うほど悩んだとか、それはもう夫婦で喧嘩が絶えなかったとか、命を削ったとか、いろんな話を聞く。それを今、身を持って体感している。できることなら、設計もお金のことも、身近に全部打ち明けられる人がいればどんなにラクかと思う。それを、一人で仕事の合間を縫って、日々やっている。現場での確認も増えてきたので、試合のない日も鹿嶋まで車を走らせる。その分仕事が遅れれば、サービスエリアやファミレスで仕事をしたり、睡眠時間を削る。

正直、お金はない。弟を高校卒業させるために、だいぶお金を使ってしまった。育児放棄した親は、弟の養育費を送ってくれなかった。一時期は兄の医療費も毎月仕送りしていた。父親が生活費に困ると、現金書留で送ることもあった。その父親も、震災の避難中に離婚して他人になった。大学生の頃も、仕送りはなかったから奨学金とバイトでやりくりした。奨学金は、社会人になって貯金ができたときに、一括返済した。とにかく、働いても働いても、お金は消えていった。そんな中貯めたなけなしのお金を、この家につぎ込むことにした。こんな日がいつか来るかもしれないからと、自分の会社の経営は常に黒字でやってきたので、銀行にも話はしやすかった。

どの家にもきっとたくさん思いが詰まっていると思う。私もまた、この鹿嶋の家にはたくさんの思いが詰まっている。もし、私の寿命があと5年だとしても、家は建てたかった。世界中の建築を見て歩くのが好きだったからだ。やりたいことはなるべく全部やってから死にたい。

完成までまだやるべきことが山ほどある。慎重に着実に、カタチにしたいと思う。
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大熊のこと
2015.09.10 Thursday - comments(1)
実家のあった大熊町は、作業員の町になった。国道6号線から東側(海側)は中間貯蔵地域に決まって、うちはこの地図の左下、6号線よりも山側だったので、中間貯蔵は免れた。免れたからどうということでもない。相変わらず警戒区域で立入禁止で、もうとっくにこの町のことは捨てた。

東京から続いている6号線は、仙台方面まで開通したが、バイクなどの二輪車は通行禁止。車も通行時は窓を閉めた方がいいと思う。それだけこの町は他と比べても線量が高い。だからといって、この町を行き来するくらいで死んだりはしない。ここで日々働いている人は何千人もいる。これから先、何十年も人が消えることはない。福島第一原発の廃炉作業は、私が死んでからもずっと続くのだろう。

母親は避難先を転々として会津若松に辿り着いた。新しい町での新しい生活を案外気に入っている様子だった。避難中に両親は離婚した。父親はもう定年を過ぎているけれど、原発内で溶接の仕事をするベテランの職人だったので、たぶん今も必要とされているんじゃないかと思う。南相馬辺りに住んでいるという噂を聞いた。元々、私とは血が繋がっていないし、暴力も激しかったので、世界のどこかでまあがんばって生きてくれればいい。

18歳まで過ごした私の町。こんな町がもう増えて欲しくない。

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富岡のこと
2015.09.10 Thursday - comments(0)
楢葉より北、富岡に入ると線量も若干上がって、町は楢葉よりももっとずっと荒れている。帰らないと判断した人が多いということだろう。帰らないというより、帰れない理由がたくさんあるのだ。

津波で受けて、残骸だけが無残に残っていた富岡駅はとうとう撤去された。線路の海側は完全に放射性廃棄物の仮置き場になっていた。そこに「仮設破砕選別施設」というのができて、日中はトラックが行き来している。線量の低いものはここで燃やすと聞いた。日々、増え続けるゴミの処理はこれだけでは全然足りない。それに、線量の高いものは燃やすと線量が上がるので燃やせない。ではどうするか? 解決方法はまだない。

震災後に、楢葉町、富岡町を中心に、たくさんの人を案内させてもらった。富岡駅前にあった小さな商店を見た母親とばあちゃんが「誠屋だ!誠屋こんなになっちゃてなあ」と口々に言う。今まで案内していたそのお店が親戚の家だと初めて知った。

富岡高校出身の母親は、車内からこの町を見ながら「同級生の家がこんなになっちゃった」とか「ここ通学路だったんだけど」とか、いろいろ思うところがあったようだ。助手席のばあちゃんもまた、テレビや新聞で見るのと全然違うなとショックを隠しきれない様子だった。ばあちゃんは日々新聞を読んでは感想をノートに書く、というのが日課なので、特に故郷のニュースに関してはかなり詳しいはずだった。それでもやはり、実際に黒いフレコンに囲まれると、その異様さに胸を痛めたようだった。でも、私は今この風景を親子三代で一緒に見て感じて、気持ちを共有できてよかったと思っている。
 
富岡の減容化施設稼働 除染廃棄物などを焼却
東京電力福島第1原発事故に伴う除染廃棄物や片付けごみを減容化する環境省の仮設焼却施設が福島県富岡町内に完成し19日、稼働を始めた。国の責任で処理する汚染廃棄物対策地域内では最大規模の施設で、1日最大500トンを処理できる。
 敷地は沿岸部の同町毛萱、仏浜地区の民有地計12ヘクタール。破砕選別施設や灰保管施設も併設した。
 焼却対象は富岡町内で出た廃棄物22万5000トンで、うち除染廃棄物が15万トンを占める。2017年3月末までの2年間で焼却処理した後、施設は解体撤去する。1キログラム当たり10万ベクレル超の焼却灰は中間貯蔵施設に保管し、それ以下の灰は同町が候補地の民間管理型最終処分場に搬入する予定。
 焼却炉は2基。集じん機能を持つバグフィルターを各炉に2重に設置して、排ガス中の放射性セシウムなどを除去するほか、粉じんの外部飛散を防ぐため、施設全体を密閉性の高い大型テントで覆った。
 同省によると、対策地域内で稼働している焼却施設は富岡町のほかに川内村と飯舘村(小宮地区)の3町村。同省は現在、南相馬市や浪江町など4市町村で建設工事に入っている。

2015年03月20日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201503/20150320_62040.html

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2015.09.10 Thursday - comments(0)
ばあちゃんちのご近所に牛小屋があって、通学路にもなっていたから、そこに牛がいるのが当たり前だった。小さいちびをおんぶして牛を眺めに出かけると、ちびは柵越しに「モー!モー!」と興奮気味に喜んだ。

震災前の牛小屋。いつもの風景。



2013年4月頃。震災直後は屋内退避、それから避難指示が出た。警戒区域になって立入が禁止されてからも、家の人がこっそり牛や鶏にエサをやりに来ていたと聞いた。もう生き物の気配はなく、音もにおいも消えていた。



2015年8月、更地になっていた。


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